この秋から【七面山登拝・参籠2Days】、新しいガイドツアーが加わりました。
七面山登拝・参籠2Days
富士山で須山口や村山口などの古道、巡礼道を探査して、ガイドツアーに組み込んだり、その歴史を紹介しながらガイドツアーをしてきました。
その流れの中で、信仰登山の歴史が深い各地の山を案内したいと企画を練っていた成果がようやく、形となってきたところです。
来年からは出羽三山(月山)、白山、立山三山のガイドツアーもスタートする予定です。
今まで通り、登山ガイドツアーの中で、歴史や文化を伝えるというスタイルのままでも良かったのかもしれませんが、今回の七面山ツアーに限っては宿坊・敬慎院に参籠するという体験に合わせて、登山の中で「自分を見つめる」をテーマに設定してみました。
羽黒山(出羽三山)の杉の巨木
今までのガイドツアーでは、こういった精神世界や登山哲学的なテーマを掲げることは無かったので、ある意味では、今までとは少し毛色が違ったガイドツアーのように思われるかもしれません。
ただ、誤解の無いように説明をしておくと、「自分を見つめる」と言っても自己啓発的な指導を目的としてはいません。
一人一人がどんな心持ちで登ってもOKだと思いますすし、「登山はこうあるべき」といった型や枠を造るような指導もしたいとは思っていません。
「自分を見つめる」をテーマにした背景から、まずは説明していきます。
登山ガイドが主催するからには、どんな登拝・巡礼ツアーの形があるのだろうか?
もともと、私は講中登山や信仰登山、巡礼などの歴史・文化に興味・関心は高く、そうしたルートを歩く機会が多かったです。
各地の山、自然に触れながら、同時に歴史・文化についても学ぶ中で、修験道にも関心が及ぶわけですが、例えば、出羽三山や大峰などの「修験道体験ツアー」があっても、参加しようとまでは正直思ったことがありません。
宗教的な側面に全く関心がないわけではないのですが、儀式・儀礼には魅かれていないのかもしれません。
1000年前の人と同じ景色を見たい、同じような思いで歩きたいのですが、「白装束」を着て「六根清浄」を唱えなくても、それは実現できるのではないかと思っているからでもあります。
登山ガイドは、ある意味でリアリスト(現実主義)です。
現代的な登山装備を使うメリット、安全面も良く分かっていますから、登山ガイドが主催する登拝ツアーが「修験道体験ツアー」とは違ったものになってくるのは、理解して頂けるかと思います。
ただ、ひたすらに歩く
ではそこで、「自分を見つめる」というテーマが加わったのは何故か?
このブログページをリニューアルした去年(2017年)の冬からブログに、「只管登山」(しかんとざん)という言葉を掲げていたのを皆さんお気づきだったでしょうか?
この言葉、禅語の「只管打坐」(しかんたざ)をモチーフにした私の造語なんですが、あえて説明をしないでいました。
興味を持った方はそのまま検索して頂ければ分かりますが、「只管打坐」は「ただ、ひたすらに坐る(座禅をする)」という意味です。
「坐ることに成りきること」、「坐ることに没入して心と体が一つになる」ことを示した言葉です。
禅語を使って説明するとちょっと小難しく感じられるかもしれませんが、早い話が、登山の中での「歩く」という行為にも共通する点があります。
私自身が登山経験の中から気づいた事柄ですが、是非、この点を皆さんにも体験の中でお伝えしていければと思っています。
こればっかりは、全てをブログで言葉で説明するのは困難ですので、まずは登拝ツアーの中でお伝えしていきます。
歩き方講習会と七面山登拝ツアーは2つで1つ、対になる存在
ここからは少し余談になります。
最近個人的に感じていることですが、この「只管登山」を体感することは、歩き方講習会で効率的な歩き方のノウハウを学ぶことと同じくらい大切なことなのではないかということです。
参加したことがある方はよく分かると思いますが、私の歩き方指導では、出来る限り論理的具体的に、「人間の体をどう動かすか?」について説明をしています。
膝痛などに悩む皆さんにとっては、姿勢や筋肉の使い方などのメカニズムが分かって、とても役立つ内容だと思います。
でも、どんなに上手な歩き方を学んでも、結局は自分自身の体を操れるのは自分だけ。
自分自身の歩き癖を理解して、体のバランスの乱れや疲れを察知出来るのも自分だけ。
その乱れや疲れを察知して、動きを修正できるのも自分だけ。
だからこそ、私が効率的な歩き方を解説したり、アドバイスをしていることは、「表面的」な指導に過ぎないのかもしれません。
むしろ、自分で自分の体を動かす土台となる「自分をみつめる」「心と体の一体」が充実出来ていれば、最適な答えを自分自身で見出せる。
「歩き方」を学ぶ必要のない境地があると思うのです。
さらに飛躍すると、上手く歩く、疲れないように歩くと言った次元を超えた境地もあるのだと思います。
一年で百日、十年間で千日。
ただ歩き続けることで、そんな境地に至ってみたいものです。