「屋久島を振り返って」 最後に、今回の「屋久島」の振り返りを書いてまとめとしたい。 まずは、鹿児島空港での乗り換えや、機内で綴った「屋久島メモ」の中の言葉を読みやすく修正したものを。
『いつもなら、帰りたくない、もう少し楽しみたいと思うのかもしれない。個人HPの日記(2004.11.29)からの引用。
しかし、今回は十分満足したせいなのか帰る事を惜しむ気持ちは無い。
ただ、屋久島空港で機内に乗り込むとき、そして、機内から雲間に見える屋久島を見つめたとき、とても切ない思いが込み上げてきた。
そして、海に浮かぶ島を眺めながら、ふと心の中で流れてきたメロディー。
どこかで聞いた事のある曲、ルイ・アームストロングの「What a wonderful world」。
僕は、今回の屋久島で、自然の生命力を強く感じた。
傾いても、どんな状況でも逞しく生きている植物たち。
屋久杉だけでなく、着生植物などを始めとする、原生自然の大いなるつながりの世界。
そんな「つながり」の世界の力強さを痛感し、それに対して自分にとっての「つながり」を思う。
自分にはもっと信じていい「つながり」がある。
もっと信じて歩み出してもいいのに、変化を恐れて信じ切れていない。
過去に、信じすぎて裏切られたことを、引きずっているのだろう。
でも、それは組織を信じた僕が悪かったのであって、仲間達は信じていいはずだ。
もう一歩踏み込んでみよう。
僕は多くの人達とつながっている。
次に屋久島を訪れるまでに、次のステージに立っていたい。』
『そして彼等が、「もっとつながりの中で生きなさい」と言っている、そんな気がしたのだ。 屋久島での後半、一人で花山歩道を歩きながら、僕は「つながり」について考えていた。 自分の中に既に宿っているのに、忘れかけていたり、見過ごしている「つながり」があるのではないか。』個人HPの日記(2004.12.1)から引用
中越地震が起こったことを知ったのは、ちょうど屋久島滞在中、アジコを空港に送った時だった。 空港のTVで見たニュースは、どこか遠い国の出来事のように感じられた。 「時間と空間」を飛び越えたような旅をしていて、その後もニュースから遠ざかっていた。 彼女とのメールのやり取りで、被害が大きいことも知らされたが、あくまでも僕は旅人だった。 その後、帰宅しニュースを見たりしたが、やはりきっかけは大学祭に行き、ボラセンの仲間達と再会したことだった。「ほっとプロジェクト」(※)を旗揚げし、年末に中越にボランティア活動に向かうという目標を見出したことで、屋久島で抱いた思い、経験が、大きな後押しとなった。 (※補足・・・「新潟県中越大震災年末ほっとプロジェクト」として、母校の卒業生・現役生・教職員のボランティアが集まった。) 屋久島の旅から一年が経ったのだが、改めて僕が屋久島から与えられた力の大きさを思う。 屋久島から帰った翌11月から年末までの約二ヶ月、ずっと睡眠不足のまま準備を続けて、新潟に向かったのだから。 屋久島、新潟と続いた経験は、個人的にとても貴重なものとなった。 それと同時に、何の因果か、僕らの被災地へのボランティア活動が影響して、大学が「ボランティアセンター」を設立、運営を始めた。 その内容はともかく、大学に大きな波紋が広がったことは確かで、「ほっとプロジェクト」の発起人としては有難く思う。 そして、僕にとってはそのプロジェクト至る伏線がこの「屋久島行」にあった。 旅の終わりにも思ったが、今改めて、この屋久島で出会った全ての人と自然に感謝したい。 最後まで読んでいただいてありがとうございます。 この文章は04年暮れから05年にかけて書いたものです。 「ほっとプロジェクト」での新潟震災ボランティアの話しは、いずれ文章を再編集してここに掲載したいと思っています。