曠野を駆ける狩人
今日は最近読んだ本について書こうと思います。 司馬遼太郎「梟の城(ふくろうのしろ)」 戦国末期の伊賀忍者・重蔵の生き様を描いた歴史小説、直木賞受賞作でもあり、たしか数年前に映画化されていましたね。 昭和40年発行の単行本で、実は亡くなった親父の書棚にあった一冊です。 ボクが歴史小説好きなのは親父譲りで、親父がなくなってもう15年ほど経ちますが、親父が持っていた本の中で読みたい本を保存してあって、未だに少しずつ読み進めています。 司馬遼太郎の本はまだまだ読んでないものも多いのですが、最近では「播磨灘物語」がなかなか面白く、熱中して一気に読んでしまいました。 今回、この「梟の城」について触れようと思ったのは、作中にとても印象深い言葉があったので、是非紹介したいと思ったからです。 その一文を読んで、思わず納得しつつ、「ううむ」と唸ってしまいました。 興味をもった人は是非読んでみてください。 作中、石田三成の家老・島左近が、主人公・重蔵に思いを寄せる小萩という女忍者に対して語った言葉です。 「男というものは、おのれの情熱の矢をつがえて曠野(広野)を駆けている狩人のようなものじゃとわしは所存している。どの男も、さまざまな曠野の風景を夢にえがいて生きている。おなごというものは、その狩人を檻に入れる天の役人であろう。いかに巧みに檻へ入れるか、そこは、おなごと男の才覚のたたかいのようなものではあるまいか」 檻に入れられるという表現が何ともストレートで面白いなと思ったのでありました。